あの風に吹かれて 〜blowing the wind〜

「風に吹かれて」徒然なるままその日暮らし。気づいた事感じた事を勝手に書き綴っていきます。

今こそ「ドストエフスキー」を知る理由

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821年11月11日1881年2月9日)は

ロシアの小説家です。





『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などの作品を残したレフ・トルストイ、イワン・ツルゲーネフと並ぶ巨匠の1人です。


大江健三郎、志賀直哉、芥川龍之介、太宰治、夏目漱石、村上春樹等の日本人作家にも影響を与えています。


何故今回彼を知る必要があるかと言えば、彼の生きた時代、彼の伝えたかった事が、この「現在を生きる日本人」へのメッセージでもある気がしたからです。


彼の生きた19世紀半ばは、「理性万能主義」思想が流行していました。これは現代日本においては「科学万能主義」或いは「権威絶対主義」と置き換えてると分かりやすい気がします。


彼を知る為には、彼の生きたロシアを背景が重要です。



1830年、ドストエフスキー9歳当時のロシアでは古く貧しい貴族出身チャーダーエフ、「哲学書簡」が論争を巻き起こしていました。

「インテリゲンチャ」と呼ばれる「知識階級」が

西欧派とスラヴ派に別れて論争を繰り広げていました。

スラヴ派は西欧を「伝統への回帰」を唱え、西欧の個人主義に対比する、ロシアの伝統的な農村共同体(ミール)の集産主義を唱えました。

これに対して西欧派の方々はスラヴ派側を「無知と空想の産物」として、「ロシアの後進性」主張しました。


ちなみにチャーダーエフはかの有名な慈善団体、「フリーメイソン」ロッジに所属していたようです。


この辺りは移民問題など、右傾化、全体主義的になっている日本人と個人主義的な国際人との空気に類似しています。


この流れはやがてロシア帝国を動かす事になります。





1855年アレクサンドル2世が即位した頃から改革が始まります。


ドストエフスキーが29歳の頃です。

ちなみにドストエフスキーは生涯二回結婚を経験し共に死別していますが、1回目は皇帝即位2年後の1957年です。愛する伴侶を二度亡くしている事は、彼の思想に人生に多大な影響を与えています。


1953年に始まったクリミア戦争はアレクサンドル2世が即位後も戦況は好転しませんでした。

セヴァストポリは1年近くの包囲戦の末、8月に陥落、1856年3月にパリ条約が締結されて戦争は終わりましたが、その内容はロシア帝国を弱体化させました。

それによりヨーロッパ最強の軍事大国と思われていたロシアのプライドはズタズタにされました。


この頃から国内の空気が変わり始めます。


ちなみに我が国の明治維新は1968年。世界的に統治体制を変化させたのは「産業革命」だったのは「AI」や「フィンテック」「仮想通貨」「sns」などの「革命」と直面する現代と酷似しています。


話に戻ります。


当時、ロシアには「農奴」と呼ばれる農民奴隷が全農民の半数近い約2300万人が存在していました。

インテリゲンチャ、とりわけ敗戦により勢いを増した西欧派は農奴制を批判し、その勢いは弱体化したロシア帝国再建が急務のアレクサンドル2世を動かします。


1861年2月19日に「農奴解放令」が公布されます。これにより彼は「解放皇帝」と称されることになるそうですが、元来保守的な彼の本意ではなかっとされます。


奴隷から解放された農奴が初めからハッピーな生活が用意されていたかと言えば、そうではなく「賃金奴隷」に言葉がすり替わりました。



理由は土地が無償分与された訳ではなく、政府が領主に対して寛大な価格で買戻金を支払うことになり、解放された農奴は国家に対してこの負債を支払わねばならなかったからで、土地の1/3程度が領主の保留地となり、多くの場合、元農奴は耕作地が狭められた上にやせた土地が割り当てられました。

大概の分与地は農村共同体(ミール)によって集団的に所有されて農民への割り当てと様々な財産の監督が行われ、元農奴は領主に代わって農村共同体に自由を束縛されることになった農奴制は廃止されたものの、解放から暫くの間、農民の生活は一層苦しくなりました。


しかし農民の立場だけ見れば悲惨でしたが、都市部には労働者が供給され、産業は飛躍的に発展し国力は強化されました。

政策的には大成功したと言えるのではないでしょうか?


「規制緩和」「労働改革」の名の下に現代の奴隷雇用、派遣社員を創り出し、賃金格差を招いている日本と、こちらも酷似している様に思えるのは私だけでしょうか?


革命を起こしたとしても、個人の辛い日々の生活は続く。でもその中で生きていくこと、現実と向き合う事を主張する。

「実存主義的の先駆者」と呼ばれるドストエフスキーの思想はこんな空気の中から生まれたのだと思います。


ちなみに「解放皇帝」が暗殺されたのは1881年の3月5日であり、ドストエフスキーが亡くなってから一ヶ月も経たない間の出来事になります。


その頃には民間の知識人も増え、ロシアにも帝政からの脱却の素養が育ち始めました。


それはやがて「坂の上の雲」で司馬遼太郎が描いたバルチック艦隊壊滅、日露戦争の敗戦、その後のロシア革命、巨大社会主義国家の誕生日へと繋がっていきます。


点と線を単体として見れば繋がっていない様な事も、案外大きな影響を与えている事があります。


ドストエフスキーは、前述の様なインテリゲンチャの影響を受けた知識階級の暴力的な革命を否定し、キリスト教、ことに正教に基づく魂の救済を訴えているとされます。


作風、主張から「実存主義の先駆者」とも言われています。




如何だったでしょう?


プロフィールにも書きましたが、私は純文学や哲学が大好きです。


ブレーズ ・パスカルは「人は考える葦である」という言葉を残しています。


対局で見れば一個人など、取るに足らぬものに見えてしまうとしても、その個人が何を考え、行動するのか、それが大切な事なのではないでしょうか?


チャーダーエフが、アレクサンドル2世が、ドストエフスキーが生きた時代に思いを馳せながら、今これから何をすべきか。


これを機に「読書の秋」に合わせて「ドストエフスキー」を試されてるのは如何でしょうか?